ram’s blog

本と映画と絵画をこよなく愛する日々の記録

BARに灯ともる頃/銀座シックス

 

BARに灯ともる頃 [DVD]

13年前、初めてこの映画を見たとき、こんなことを書いていました。

 

 

息子:「彼女とはうまくいっている」

父親:「そのことは信じよう。しかしいまは生活の負担も先の計画もない。うまくいくはずだ。だがグロリアかグラツィアか、他の男とミラノへ行った女だ。彼女を愛して結局はフラれた」

息子:「”結局はフラれた”と?名前も憶えてないのに何がわかる」

父親:「いまも彼女を愛し、忘れようとして他の女と付き合ってる。名前は関係ない。憶えとけ、どんな場合でも女が男を変えるときには計算がある」

息子:「細かい観察で恐れ入るね」

父親:「大都会は息苦しい。公害、大量消費、生活費の高騰、人口増加、確かにその通りだ。おまえはそこで理想の女性をみつけた。だが残念ながらその彼女に逃げられた。決断もせず責任もとろうとしなかったからだ」

息子:「どうしてそう勝手に決めるの?他人のことを自信たっぷりに判断するの?常にあらゆる判断が正しい、ご立派だね。僕は何も選べない。レストランやワインさえもだ。だから飲まない、わかるね。自分では何も選べない。何も判断できない。その上、父さんがそばにいると余計ダメだ。だから僕を放っといてくれ」

父親:「やめろ、被害者意識のかたまりだ。判断しているのはお前だ。」

息子:「僕が?」

父親:「そうだ、勝手に決めている。なにしろお前は優雅で高踏的だからな。先を見ない。働くことや、家族を持つことを考えない。よく聞け、お前は思い上がっている」

 映画『BARに灯ともる頃』のクライマックスのシーンである。
 このくだりは、ほとんど私の実体験と一致している感じがする。
 私も父親にこんな風に言われたことがあるような気がする。

 父親の存在は大きい。

 

今日、久しぶりに、『BARに灯ともる頃』をまた見直してみました。

13年前に最初に見たときより、数年前に2度目に見返したときより、息子よりも、マストロヤンニ演じる父親が抱える悲哀や、心の機微に感じ入るところが多かったです。

 

マストロヤンニ演じる父親は、ローマでたくさんの仕事を抱えるやり手の弁護士です。一方、田舎の港町で軍務に服している息子は、父親の前では顔色をうかがって言いなりになってしまう気弱な青年として描かれています。

物語は、ある休日に父親が息子のもとへはるばる会いにくるところから始まります。

生き馬の目を抜くようなローマでの分刻みの仕事ぶりをそのまま持ち込んだような父親は、愛情過多というイタリアの親父のイメージそのもので、地方の人間を軽く見下し、自分の価値観を押しつけていることに気づかず休むことなくしゃべり続けます。決して嫌な父親には描かれていません。息子が完全にペースを奪われてしまって、やや気まずいだけです。

息子もただ言いなりになっているだけの男には描かれていません。どちらも、このように生きていくのだ、このようにしか生きられないのだ、という存在感がしっかりと出ています。

 

今回改めて感じた点はこんなことです。

文学を愛好し、一時は作家志望だと父親から思われていた息子は、近所の図書館に通うある人物と小説の中の一片の台詞から作品を言い当てるという遊びに興じているのですが、その人物に負けず劣らず、父親が文学に造詣が深いことに驚かされる、という場面があります。ボッカチオの『デカメロン』を愛読しているという父親は、台詞の一片を詳細に解説してしまいます。

 

社会の中で戦っていく、妻子を持って生き抜いていく覚悟を決めた父親にとっては、文学はれっきとした世界の一部分であり、切り捨てることなく享受しているわけですが、モラトリアムの中に浮かんでいる息子にとっては、あたかも文学は現実社会から切り離された、ナイーブな自分の世界だけにあるもののようです。それはある意味、息子にとっての心の砦だったかも知れませんが、父親はそれすら全部実社会の中に生かしているのです。

 

そんな父親から見たら、息子のやることなすことが、「優雅で高踏的」に見えても当然ですよね。

 

今日は、銀座を散歩して、また銀座シックスの蔦屋書店覗いてきました。

モダンアートの棚が、一番のお気に入りです。