「ヨブ記」を読む
今日は、朝早く起きてのんびりしているうちに、昼近くになってしまいました。
『ヨブ記』を読んでみました。
家にある旧約聖書は文語体のものだけなので、正直読むのがしんどいです。以前スマホに100円ぐらいでダウンロードしていましたので、それで読んでみました。
ヨブとはどんな人?
まず、ウヅという地にヨブがいます。
正しくて、神を畏れ、悪から離れています。
子供が十人いました。(男7、女3です)
家畜は約1万1000頭。
ほとんどが羊です。
子供たちには燔祭などの儀式も行うし、きちんと折り目正しく物事を執り行う地方の有力者といった姿です。
一度目の試練
あるとき、神の前に悪魔がやって来て言います。
「ヨブは神を畏れるでしょうか?」と。神がヨブの所有物をしっかりと守っているがゆえに、まあ、安心して恐れることなく暮らしているのでしょう、と。
試しに全ての所有物をなきものにしてみたら、神をのろうでしょう、と悪魔が神にささやきかけます。
ある日、家畜やしもべが皆殺され、子供たちも、皆、死にます。
このとき、ヨブは地に伏して、
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ」と神に文句を言いませんでした。
ちょっと感想
この、神というものをある人格を持った存在だと受け止めるとおかしなことになるのではないでしょうか? これはヨブの知らないところで起きたのではなく、ヨブの心の中の片隅で行われた対話だったのではないでしょうか? 種を蒔けば自然に増えていくこと、家畜たちが自然の草をはみ、増え満ちていくこと。この力、動きがある意味で神のなせる業(わざ)と捉えられていて何の不思議もありません。
だから、ふと自分の幸せに疑念がさした、ということを示しているのではないでしょうか。
これはつまり、神という存在を考えない、悪魔という存在を考えない。それは人間の心の作用、またはこの世の中になる現象を比喩できに捉えたものである、と考えるということです。
そして、ヨブの心の中に生まれた疑念は実現、具現化されます。おそらく何度も考え、夢に見たからではないでしょうか。良いことが起こるのなら悪いことも起こるはずだ、ということです。そして実際にそれが起きたとき、そもそも自分は、その現象、起こることに身を委せて生きてきたのだ、だからこれからも起こることに身を委せよう、と言ったのではないでしょうか?
2度目の試練
まだ神をのろわないので、再びサタンが神のもとにやって来てそそのかします。持ち物ではなくて体そのものに苦痛を与えてみよ、と言うわけです。
足の裏から頭のてっぺんまでいやな腫れ物を作り、ヨブを悩ませるわけです。じっと黙って苦しんでいるヨブに向かって妻が言います。
「神をのろって死になさい」と。それに対して、ヨブは言います。「それは愚かな女の言いぐさだ」と。
「われわれは、神から幸をうけるのだから、災いもうけるべきではないか」と。
そのあと、三人の友人が訪ねてきてもじっと苦しんでいます。
もういちど感想
ここは、苦しみの程度を増してみた、というところでしょう。なかなか音を上げないな、こいつは・・・というところでしょうか。皮膚病責めです。
ヨブの答えは、幸せだけをえり好みして受け取るのはどうなんだ? ということです。義理堅いと言えばそう言えます。でも、通常の心理としては幸せだけほしいです。苦しみはいりません。
いや、果たして本当にそうか?
まあ、事実、全ては苦ではないか?
そこを発見したのはブッダだということになっています。
おわり
『ヨブ記』の肝はここから先にあるのかも知れません。でも、僕にとっては、ひとまず、ここまでで十分だ、という気もしています。