ram’s blog

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映画『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』

メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬 スペシャル・エディション [DVD]

あらすじ

 

テキサスとメキシコの国境地帯で、遺棄された不法入国者ルキアデス・エストラーダの銃殺体が発見される。これが1度目の埋葬。殺害に関与したのは国境警備隊員のマイクだったが、彼は荒野の真ん中に響いた突然の銃声に怯え、無闇矢鱈にライフルをぶっ放しているうちに、メルキアデスを死なせてしまった。仕事中にオナニーしようとしているところだったから、余計にびっくりしたのだろう。メルキアデスは、自家製牧場に寄ってきたコヨーテを撃ち殺そうとしていただけだったのだ。

 違法入国者を国境警備員が不慮に死なせただけ、地元の警察官ベルモントは遺体が腐敗する前に、捜査もそっちのけで2度目の埋葬をしてしまう。納得できないのは、メルキアデスと親しくしていたカウボーイ、ピート。彼を演じるのがトミー・リー・ジョーンズである。

「俺が死んだら、国境の向こう、ヒメネスの村に葬ってくれ」というメルキアデスとの約束、すなわち3度目の埋葬を果たすため、ピートは自ら行動を起こす・・・

 

3度埋葬される意味

なぜ、人は異国の地ではなく、自分の故郷に葬られたいと思うのか。エストラーダは偶然の死者として一度、隠蔽(埋葬)される。自分の仕事を害虫駆除としか考えていないような国境監視員に射殺されたのは、自分の山羊を襲うコヨーテを射殺するためだった。ここに、アメリカという国のいびつな成り立ちの縮図が透けて見える。皮肉なのは、排除する者は、死を与えられるということである。

そして2度目には、不法入国者として警察によって埋葬される。社会的に処理をされるわけだ。アメリカの抱える歪みによって押しつけられた第2の死である。だが、本当の弔いは、友によって行われる。その埋葬先であるヒメネスが実在しないのには訳がある。それは、故郷ではなく、死者の国=冥界なのである。だから、この映画は、友を冥府に送り届ける、巡礼の旅なのだった。国境の町では、本当に死ぬには、3度死ななければならない。

 

テキサスの女たち

 国境警備員のマイクと、その妻ルー・アンはシンシナティからやって来たことになっている。華やかな高校時代とは打って変わって、国境の町テキサスはルー・アンにとって退屈極まりなく、仕事に疲れた夫は彼女を少しも大切にしてくれない。常連になったカフェのウェイトレスは、その退屈を紛らわせるために、警察官のベルモントとも、ピートとも関係を持っている。ダブルデートに誘い出されたルー・アンは、メルキアデスとモーテルの部屋に入ることになる。このとき、メルキアデスは、女たちに夫がいることを知っている、部屋へ手招きするのはルー・アンである。最初の日、緊張に身を固くしたメルキアデスはルー・アンとダンスをするだけだが、その後も4人はデートを重ねている。描かれていないということは、当然、描かれていないだけのことである。メルキアデスは、映画的にはマイクの銃弾にさらされるだけの十分な理由があると言ってもいい。印象的なのは、まるで『ラストショー』(1971)を思わせる、テキサスの倦怠と性的放縦である。

 

死を乞う盲目の老人

死者をあの世へ連れて行くのが、後半のピートとマイクの仕事であるわけだが、その道中に2人は、死ぬに死ねずにいる盲目の老人と出会うことになる。2人は老人から腐ったような食物を振る舞われ、老人に食物を届けてくれていた息子が癌であることを知らされる。「撃ち殺してくれないか」とピートに頼む老人は、このまま捨てられたように死を待つ存在なのだ。「罪を犯したくない」とピートは断るが、死を乞う老人は、あたかも死者の国の入り口に立つ門番のようであり、また、エストラーダの殺人の罪を相殺する存在であるかのように思える。

 

3度目の埋葬

 

そして、最期にピートは木切れに「ヒメネス」と書いた、表札をぶら下げ、メルキアデスの墓所を自ら作り上げる。冥府は、どこか遠くに存在する場所ではなく、死者を見送る生者、生きている者が「ここ」と思い定めた場所に他ならない。そのことを見る者は知らされる。