ram’s blog

本と映画と絵画をこよなく愛する日々の記録

加藤典洋『言語表現法講義』

加藤典洋『言語表現法講義』を読みました。

言語表現法講義 (岩波テキストブックス)


加藤典洋氏の、「書くこと」に対する誠実な姿勢に他の本で触れ、敬意を覚えました。読める限り読んでみようと、手に取ったのが、この一冊。


書くことは、僕にとっては趣味、慰め、プロの書き手に対する憧れ、引け目、そのすべてです。できることなら本当に最善を尽くして向き合いたいことです。加藤氏の講義からもその切々とした思いが伝わってきました。


この本に納められた、書くことについての様々な言葉は、自分もまた、まだまだ良い読み手、良い書き手になれる、さあ、読んだり書いたりしよう、ととても明るい勇気を与えてくれました。


加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』

加藤典洋村上春樹は、むずかしい』を読みました。

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)


村上春樹は言うまでもなく、底の浅い作家ではない、気取った会話や、すぐ寝る女の子ばかり書いて、リリカルなだけで人間を書けていない、軽くて中身のない作家なんかではない。いかに先鋭的に、ときに時代を先取りしながら、誠実に小説の自己変革に打ち込んで、奥深い作家になっていったか、ということを、実に明快に、それこそ本当に誠実に書いた、好著でした。

実際に、加藤典洋という批評家を、亡くなって2年近く経つ今、とても信頼できる人だ、と感じました。

そして、存命中にもっと深く読んでおきたかったし、亡くなった今となってはなおさら、ただの文章以上に『書き遺された言葉』として、直に心に通じてくる気さえします。


これまで村上春樹の短編、長編をこよなく愛読してきた自分も、ここ最近は、もしかしたら自分は『騙されていた』のではないか、と疑いたくなることがあったのは事実です。

とくに『騎士団長殺し』と『一人称単数』を読んでからというものは。騙されていた、とまでは言わないでも、少なくとも『魔法は解けてしまった』のは本当ではないか、と思ったのです。そして、それは本当なのです。

けれども、加藤典洋が短編、長編を、読み込みながら考えてきたこと、そして、彫り出してきた村上春樹の姿は、私が思い描いていたよりも、ずっと大きく、誠実な、夏目漱石と通ずる稀有な作家の姿でした。

『だまされ屋さん』星野智幸

正直言って、大変な面白さでした。

語りのドライブ感といったら、圧巻と言っていいと思います。

久しぶりに引きずり回される小説を読みました。

小説自体の構成としては、何もかも放り込み過ぎ、そして全てにアンサーしようとし過ぎて、最後の最後は力が薄れた印象がありましたが、それでもこの筆力には敬意です。

だまされ屋さん (単行本)

 

著者星野智幸の本を読むのは「夜は終わらない」を途中で断念して以来のことです。それまでも、定期的に追いかけていたので、これを機に読み落としていた作品に当たってみたいと思います。

 

私は、この物語を「秋代」でも「巴」でもなく、やはり「優志」を中心にして読みたいと思いました。当事者たちから「正しさの刃」によって切られること、「存在しているだけで無関心の罪を犯しつづける」と感じること、そして、誠実に悩み苦しんでも、いやむしろ、だからこそ、周囲に「ウザ」がられること。

 

しかし、いつの時代も、自己中心で、未熟であるが「かっこいい」「超人気」者が「モテ」るのです。それは「ひがみ」以外の何物でもありませんが、作者はそんな人気者「ハリー」はこの物語の中から救い出せなかったのではないでしょうか? 人の「思い」に敏感で、心を読みすぎ、あげくには「心配も支配も紙一重」と言われ「善人ヅラするなよ」「優志、自分の人生を生きろよ」と言われる「優志」がいとおしくなってきます。

「紗良」に内心「ウザ」がられる「優志」。

この野蛮な世界のデリケートゾーンを歯を食いしばって生きる「優しい人々」への応援歌であることは間違いないと思います。

 

『悲しみとともにどう生きるか』の星野智幸さんのパートを、もう一度じっくり読み返そうと思います。

 

 

野見山暁治展/蓮實重彦/休日出勤

100歳記念 すごいぞ! 野見山暁治のいま

100歳記念 すごいぞ! 野見山暁治のいま

今日は、かねてから予約してあった、野見山暁治の展覧会に行ってきました。日本橋高島屋で開催されています。
以前から、存在は知っていましたが、実物の絵を見るのは初めてでした。昨年末に放送していたNHKの番組を見て、これは、見に行っておかなくちゃ、と楽しみにしていました。
あーいいなぁ、と思う絵と、「?」という絵、ただ、じーっといていたくなる絵がありました。
個人的にじーっと見とれてしまったのは、2020年に制作された『行ってしまった』という絵でした。『待ちぼうけ』というのもグッと来ました。『みんな友だち』もよかったです。タイトルがグッときたのは、『風の吹く階段』ですね。
詩を感じます。

展覧会の冒頭に野見山さんのコメントがありましたが、これらの絵のうちに「どう考えても身に覚えのない」絵があるそうな。

しかし、休日、絵の前に立って見ている幸福感を久しぶりにかんじました。いわゆるユーフィーリングです。

その後、丸善でお買い物。
蓮實重彦の「見るレッスン」という本を買いました。
感想は、また後日。
見るレッスン~映画史特別講義~ (光文社新書)
その後、茅場町までぶらついて、帰宅しました。が、さて、午後からのんびり本でも読もうと思ったところで、休日出勤をすることに。

今度はまた、茅場町よりずっと先の職場まで、トコトコ乗り継いで行ってきたのでした。





開高健 その人と文学 / 大江健三郎 / カント 

開高健―その人と文学

一年に数回、何かのきっかけで開高健についての本に手を伸ばします。今回は確か、何かのタイミングで「増田みず子」という名前を見かけて、その人の本は読んだことないんですが、そういや開高健のあの本で喋っていたな、というんで、久しぶりに本棚から取り出しました。


加賀乙彦の話と川村湊が話しているところを読み返し、ふむふむ、面白いな、と思いました。


1960年代に開高や大江が中国を訪問した時に、2人が見て心に留めた物事の違い、その指摘が面白かったです。開高は纏足の老婆に、纏足にしたことをどう思うか? と聞き、万里の長城の壁の落書きや、トランプに興じる退廃的な若者を写真に撮りました。一方、大江は若い女性や、子供たちにカメラを向けます。希望に満ちた未来を感じ、帰国後空港で、僕たちも子どもを作ろう、と奥さんに宣言をします。これは、有名な話なんだとか。


今度は、その中国訪問について書いたのを、読んでみようと思います。


さて、カントの「道徳形而上学論」

というのを読み始めました。これなら、読んでも分かるかな? と思ったので。

ま、もう少し読み進めて、何か分かったら、何か書こうと思います。


道徳形而上学原論 (岩波文庫)

しかし、仕事の数値目標に、やる気が起きません。

やれやれ。




フランスの思い出/休日出勤

フランスの思い出 [DVD]

今日は休みでしたが、欠員が出たため休日出勤することになりました。

時間があったので、少し映画鑑賞。

もう何度目かの『フランスの思い出』です。

やっぱり、いいですね。

あの田舎の町の、何もない道や、明るい陽や、広い墓地が、心に染みるようです。


なんだか眠気が襲ってくる頃に、家を出ました。


『悲しみとともにどう生きるか』

先日、遠い町の駅の本屋で、うんざりする会議が始まるまでの短い時間、立ち読みをするために手に取って、すぐに、これは買って読まなければ、という思いに駆られ、そして夢中になって読みました。

悲しみとともにどう生きるか (集英社新書)


20年前、自分は大学生で、テレビのワイドショーなど目もくれず、テレビのニュースも新聞も真剣に見ませんでした。

「世田谷事件」のことは、それでも耳に飛び込んでき、家を写した映像や家族の写真はまぶたに焼きついていました。

けれども今になって、初めてこの本を通して心で事件を感じとめた気がしています。

柳田邦男さんの『犠牲サクリファイス』を読んだのもちょうど20年くらい前、その記憶がまざまざ蘇りました。



特に、作家の星野智幸さん、臨床心理学者の東畑開人さんの言葉は、心に響くものがありました。

若松英輔さんの言葉は、私には少し響き過ぎるとでも言えばいいのか、何か気をつけないと言葉の力に飲み込まれてしまいそうなほどの、''巧みさ''まで感じてしまうのです。『悲しみの秘儀』も参照しましたが、それがどういうことなのかは、ちゃんと考えてみたいと思います。


いわゆる"正しいこと''とは違う、心に寄り添うというか、付き従うというか、その奥行きに入っていく入り口となる本でした。