加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』
村上春樹は言うまでもなく、底の浅い作家ではない、気取った会話や、すぐ寝る女の子ばかり書いて、リリカルなだけで人間を書けていない、軽くて中身のない作家なんかではない。いかに先鋭的に、ときに時代を先取りしながら、誠実に小説の自己変革に打ち込んで、奥深い作家になっていったか、ということを、実に明快に、それこそ本当に誠実に書いた、好著でした。
実際に、加藤典洋という批評家を、亡くなって2年近く経つ今、とても信頼できる人だ、と感じました。
そして、存命中にもっと深く読んでおきたかったし、亡くなった今となってはなおさら、ただの文章以上に『書き遺された言葉』として、直に心に通じてくる気さえします。
これまで村上春樹の短編、長編をこよなく愛読してきた自分も、ここ最近は、もしかしたら自分は『騙されていた』のではないか、と疑いたくなることがあったのは事実です。
とくに『騎士団長殺し』と『一人称単数』を読んでからというものは。騙されていた、とまでは言わないでも、少なくとも『魔法は解けてしまった』のは本当ではないか、と思ったのです。そして、それは本当なのです。
けれども、加藤典洋が短編、長編を、読み込みながら考えてきたこと、そして、彫り出してきた村上春樹の姿は、私が思い描いていたよりも、ずっと大きく、誠実な、夏目漱石と通ずる稀有な作家の姿でした。
『だまされ屋さん』星野智幸
正直言って、大変な面白さでした。
語りのドライブ感といったら、圧巻と言っていいと思います。
久しぶりに引きずり回される小説を読みました。
小説自体の構成としては、何もかも放り込み過ぎ、そして全てにアンサーしようとし過ぎて、最後の最後は力が薄れた印象がありましたが、それでもこの筆力には敬意です。
著者星野智幸の本を読むのは「夜は終わらない」を途中で断念して以来のことです。それまでも、定期的に追いかけていたので、これを機に読み落としていた作品に当たってみたいと思います。
私は、この物語を「秋代」でも「巴」でもなく、やはり「優志」を中心にして読みたいと思いました。当事者たちから「正しさの刃」によって切られること、「存在しているだけで無関心の罪を犯しつづける」と感じること、そして、誠実に悩み苦しんでも、いやむしろ、だからこそ、周囲に「ウザ」がられること。
しかし、いつの時代も、自己中心で、未熟であるが「かっこいい」「超人気」者が「モテ」るのです。それは「ひがみ」以外の何物でもありませんが、作者はそんな人気者「ハリー」はこの物語の中から救い出せなかったのではないでしょうか? 人の「思い」に敏感で、心を読みすぎ、あげくには「心配も支配も紙一重」と言われ「善人ヅラするなよ」「優志、自分の人生を生きろよ」と言われる「優志」がいとおしくなってきます。
「紗良」に内心「ウザ」がられる「優志」。
この野蛮な世界のデリケートゾーンを歯を食いしばって生きる「優しい人々」への応援歌であることは間違いないと思います。
『悲しみとともにどう生きるか』の星野智幸さんのパートを、もう一度じっくり読み返そうと思います。
野見山暁治展/蓮實重彦/休日出勤
- 作者:野見山 暁治
- 発売日: 2021/01/10
- メディア: 大型本
開高健 その人と文学 / 大江健三郎 / カント
一年に数回、何かのきっかけで開高健についての本に手を伸ばします。今回は確か、何かのタイミングで「増田みず子」という名前を見かけて、その人の本は読んだことないんですが、そういや開高健のあの本で喋っていたな、というんで、久しぶりに本棚から取り出しました。
加賀乙彦の話と川村湊が話しているところを読み返し、ふむふむ、面白いな、と思いました。
1960年代に開高や大江が中国を訪問した時に、2人が見て心に留めた物事の違い、その指摘が面白かったです。開高は纏足の老婆に、纏足にしたことをどう思うか? と聞き、万里の長城の壁の落書きや、トランプに興じる退廃的な若者を写真に撮りました。一方、大江は若い女性や、子供たちにカメラを向けます。希望に満ちた未来を感じ、帰国後空港で、僕たちも子どもを作ろう、と奥さんに宣言をします。これは、有名な話なんだとか。
今度は、その中国訪問について書いたのを、読んでみようと思います。
さて、カントの「道徳形而上学論」
というのを読み始めました。これなら、読んでも分かるかな? と思ったので。
ま、もう少し読み進めて、何か分かったら、何か書こうと思います。
しかし、仕事の数値目標に、やる気が起きません。
やれやれ。
フランスの思い出/休日出勤
今日は休みでしたが、欠員が出たため休日出勤することになりました。
時間があったので、少し映画鑑賞。
もう何度目かの『フランスの思い出』です。
やっぱり、いいですね。
あの田舎の町の、何もない道や、明るい陽や、広い墓地が、心に染みるようです。
なんだか眠気が襲ってくる頃に、家を出ました。
『悲しみとともにどう生きるか』
先日、遠い町の駅の本屋で、うんざりする会議が始まるまでの短い時間、立ち読みをするために手に取って、すぐに、これは買って読まなければ、という思いに駆られ、そして夢中になって読みました。
20年前、自分は大学生で、テレビのワイドショーなど目もくれず、テレビのニュースも新聞も真剣に見ませんでした。
「世田谷事件」のことは、それでも耳に飛び込んでき、家を写した映像や家族の写真はまぶたに焼きついていました。
けれども今になって、初めてこの本を通して心で事件を感じとめた気がしています。
柳田邦男さんの『犠牲サクリファイス』を読んだのもちょうど20年くらい前、その記憶がまざまざ蘇りました。
特に、作家の星野智幸さん、臨床心理学者の東畑開人さんの言葉は、心に響くものがありました。
若松英輔さんの言葉は、私には少し響き過ぎるとでも言えばいいのか、何か気をつけないと言葉の力に飲み込まれてしまいそうなほどの、''巧みさ''まで感じてしまうのです。『悲しみの秘儀』も参照しましたが、それがどういうことなのかは、ちゃんと考えてみたいと思います。
いわゆる"正しいこと''とは違う、心に寄り添うというか、付き従うというか、その奥行きに入っていく入り口となる本でした。