ram’s blog

本と映画と絵画をこよなく愛する日々の記録

読書「自分の中に歴史を読む」阿部謹也

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

自分の中に、何か一本軸がほしい。

 

そういう思いで彷徨っているうちに出会った一冊。てっきりすでに読んだものだと思って本棚に眠らせていたが、なんとなんと、ちゃんと読んだら、実に示唆に富んだ本だった。

 

2006年に亡くなった、西洋中世史の大家、阿部謹也が中高生向けに書いた本と言うことだけに、非常にわかりやすかった。

 

解るとはどういうことか

阿部氏の学生時代、「それでいったい何が解ったことになるのですか」というのが恩師上原専禄先生の口癖だったらしく、そのせいもありいつも何か本を読んだり考えたりするときに、いったい何が解ったことのなるのかと自問する癖がついた、ということである。それを読んで以来、ぼく自身も、頻繁にそう考えてみるようになった。それだけで、何か一つ賢くなったような、大きな収穫に感じる。

またさらに、上原先生は、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」とも言っている。そういう視点も忘れないようにしようと思う。

 

ヨーロッパ中世社会における差別の問題

やさしい語り口に、ほのぼの読み進めているうちに、非常に興味深い箇所に突き当たる。

死刑執行人、捕史、墓掘り人、塔守、夜警、浴場主、外科医、理髪師、森番、木の根売り、亜麻布織工、粉挽き、娼婦、皮はぎ、犬皮鞣工・・・など、さらにもっと多くの職業が、「賤視」されるようになったのはなぜか? それを、筆者は古代、中世の人々が「小宇宙」と「大宇宙」の二つの宇宙のなかで暮らしていたからだと説明する。「小宇宙」とは中世の一般の人々の「」「」を指しており、それを超えた、この世の全ての出来事を支配する「大宇宙」を畏れて暮らしていた。のちに賤民とし差別されることになる人びとはみな、その「大宇宙」を相手にして仕事をする異能力者として畏怖される存在だったのだが、キリスト教が普及することにより、それらの職業は公的な世界ではその存在を否定され、社会的な序列からはずされてしまった。そのせいで、一般の人びとは、彼らを恐れながら遠ざけようとすることにより「賤視」が生じた、というのだ。

 

言い換えれば、現在自分が従っている価値観、常識、ルールの中で、そこから逸脱する存在に出会ったとき、畏れを感じるとともに、そのルールを無理矢理適用することで貶めようとしている、ということなのだろうか。そういう風に考えると、なんとなく納得できるが、どうだろうか?