ram’s blog

本と映画と絵画をこよなく愛する日々の記録

『贖罪』読了/末井昭『自殺会議』

やっとイアン・マキューアンの『贖罪』を読み終えました。このところ短編小説や新書ばかり読んでいたので、久しぶりにじっくり小説を読んだ気がします。

ちょっと感想

 

 正直言って、第一部は退屈で冗長だと感じ、やや苦痛でさえありましたが、ところどころ甘美な部分はくっきり心に残っています。

第二部は独立した一つの作品と言っていいくらい迫真性があります。そうやって考えれば、第一部のあのくどくどしい描写も、それはそれで味わい深いと言えます。

最後に待ち構えている、何か大きなカタルシスというべきものはありません。

ただ、この作品の成立同様、ためつすがめつ眺められた過去の過ちや、起こりえたかも知れない架空の場面、起こるべきではなかったのに起きたことが重なりあい響きあいしながら、心の中に澱のように溜まっていく気がしました。そしてそれを、読み終えた後に、また割り切れない気持ちを抱えながら、読者の視点からためつすがめつすることに、この小説の醍醐味であるのだと思います。

後年、小説家となった作中人物ブライオニーが、この第一部と第二部を大戦後何度も書き直してきたということが、まさに果たされない「贖罪」への試み、ということになるのでしょう。

 

今朝は、この作品の映画版とは知らず、ずいぶん前に録画してあった「つぐない」のDVDを少しだけ見ました。先に本を読んでおいてよかった、というところです。

 

さて、これからは、昨日本屋で見つけて衝動買いした、末井昭の『自殺会議』を読もうと思います。

 

自殺会議

自殺会議

 

 

 

映画『OH LUCY!』/『マーク・ロスコ伝記』/『ダンマパダ』

今日はいつもより少しゆっくり寝てから、メトロに乗って買い物に出かけました。

怪我の傷は、膝の方は少し癒えてきた気がしますが、肋骨は依然、異常な痛みを感じます。でもまあ、こんなものなのでしょう。もう少し耐えたいと思います。

 

夜は、食後に『OH LUCY!』を見ました。

オー・ルーシー!

とても良かったです。役所広司の存在感はすごいですね。ラストは、これで終わり? という物足りなさを感じてしまいました。役所広司演じる元刑事の男のことをもっと知りたい、掘り下げてもらいたい、と思ったからです。同じ脚本でも、名だたる俳優が役を固めているとドラマの説得力がぐんと増す、という印象の映画です。それぞれの俳優が演じる存在感には味わいがありますが、お話は尻切れトンボと言うべきでしょう。

でも、どうだったら良かったというのでしょう? それはちょっとよく分かりません。

 

イントロダクション

 

毎日が幸せでもなく、性格も歪んだような中年の独身OLの節子。何か裏がありそうな姪の誘いに乗って怪しい英会話教室に体験入学をします。そこで出会ったイケメンの講師ジョンからLUCYと名付けられ、ハグをされて、軽く自己を解放する経験を味わった節子は、ジョンに心を奪われてしまいます・・・

 

と、つらつらあらすじを頭の中で辿っていくと、それなりに面白い展開で、寺島しのぶ演じる節子の過剰ぶりに引き込まれていくところはすごいです。

ただ、そういう風にしか生きられない人の姿が腑に落ちて、そういう風にしか生きられないこと、ずばりそのものが胸に染みてくる一歩手前で映画が終わった、というべきなのかも知れません。でも、心に残る映画でした。

 

本屋で、『マーク・ロスコ伝記』という、かなり分厚い本が出ているのを見ました。なんとか入手して読んでみたいものです。

マーク・ロスコ伝記

それから、片山一良の『ダンマパダ 全詩解説』はちょっとお小遣いを貯めて、買いたいと思います。9000円はちょっと躊躇いますよね。

『ダンマパダ』全詩解説―仏祖に学ぶひとすじの道

 

 

桑田佳祐「ひとり紅白」/古山高麗雄/静かな休日

昨夜は姉夫婦が姪っ子と甥っ子を連れて、泊まりにやってきました。ひとときの宴。

今日は一日ディズニーシーで遊んでいるようです。

 

こちらはいつも通りの静かな休日を過ごしました。まだ、朝起きると肋骨に激痛が走ります。午前は先日放送された桑田佳祐の「ひとり紅白」をずっと見ていました。まったく、すばらしいの一言。よく、あんなに続けざまにむずかしい曲の数々をのびやかに歌い上げられるものです。神業というか、天才、としか言いようがない気がしました。

テネシー・ワルツ 」「あの時君は若かった」「中の島ブルース」あたりにしびれまた。「落陽」は特に編曲がかっこよかったですね。50数曲、熱唱、圧巻です。

 

そのあとは、杖をつきつき、図書館まで本を返しに行ってきました。ドガの画集を返して、かわりにボナールとホイッスラーの画集を借りてきました。それから古山高麗雄の「編集者冥利の生活」を拾い読みしました。「妻の部屋」という短編も読みました。この短編だけは何度か読み返しています。

編集者冥利の生活 (中公文庫)

 足と肋骨が痛いので、ソファーで毛布にくるまって、ときどき睡魔に襲われながらページをめくっているのも幸福な時間でした。

 

 

『女と男の観覧車』ウディ・アレン

一度更新が途切れるだけで、何がなんでも毎日更新しようという気が失せていくのを怪しんでいます。


でも、書き留めておかないと忘れてしまうだけのことを書いておきたいと思います。


今日は少し早起きをしたので映画を一本見る時間が取れました。

ウディ・アレンの『女と男の観覧車』です。

女と男の観覧車 [DVD]

女と男の観覧車 [DVD]

最近のウディ・アレンはあまり熱心に見ていませんでした。毎年のように作品はあるので、気が向いたときにちょっと見るくらい。ケイト・ブランシェットの『ブルージャスミン』も、ものすごく期待したのになんとなく痛々しさだけが残る後味だったので、手が伸びなかったのです。

さて、この『女と男の観覧車』ですが、久しぶりの傑作ではないでしょうか。
同じブルックリンでも、都会的な余裕がある作品ではないので気軽にゆったり見返せるような映画ではありませんが、どこか『欲望という名の電車』を思わせる凄味を感じさせました。
それを感じたのは、夫の前妻との娘キャロラインを見殺しにした後、過去の破れた夢にすがりつくように場違いな舞台衣装を身につけたケイト・ウィンスレットがまさに''芝居''がかった長台詞を言う場面です。人生のどんな場面にもしっくりとこない違和感を感じで暮らす人物が、まさにその実感を表出するこのシーンは、なかなかの凄味がありました。

そして、火付けの衝動を抑えられない息子、前夫であるギャングの手先に殺され埋められたであろう若い娘、娘を失った恐怖、捨てられる恐怖に怯えて再び酒浸りになり始めた夫、そしてこんなはずではなかった人生を受け入れられず茫然とする主人公。多くのことが解決もせず、救いもないままに終わったことにより、この映画は、ウディ・アレンの久々の傑作になったのだと思います。
冒頭のシーンから、モノクロだったらまさに50年代の名画といった画面です。ケイト・ウィンスレット神経症的な饒舌も、アレンの分身のようなミア・ファローより一段格が上だったように感じます。

今なら『ブルージャスミン』の良さがもう少しよく分かるかも知れません。

怪我をしました/しょせん人生運不運?

年明け早々に、結構な怪我をしてしまいました。

とにかく毎日、日記、備忘録がわりにブログを書こうと続けてきましたが、このタイミングで途切れました。まあ、何の問題もありませんが。


1/6の夜に、急に別の部署で代替が必要だというので辺鄙な場所まで呼び出されたのですが、結論からすると、わざわざ代替を呼ばなくても問題ない状況であることが見て取れました。まあ、僅かでも役に立てたなら良かった、ということにしよう、などと殊勝なことを考えながら家路に着いたのですが、どこか釈然としないところがあったんでしょうかね、色々なことを頭の中で駆け巡らせながら、わざわざ持ち場を離れなければできたことなどを数え上げて、多少ブリブリしていたのでした。

いつも駅から家まで歩くとき妻に電話をして、もうすぐ着くよなんて言って途中で切るのですが、その日もそうして一人考え事に夢中になりながら歩いていると、ふと、すれ違いざまに中年女性といった人がこちらに近づいて来るではないですか、咄嗟のことに身構えると、暗くて顔はよくわかりませんが、ニヤニヤしながら道を塞ごうとします。この時点で、命の危険を感じ、わーっと逃げようとした途端、つまずいてその場に思い切り転倒しました。

この時は、背後から刺されるかすると思い込んでいたのですが、その女性は、ゴミ捨てついでに迎えにきた妻でした。


なんとなく状況が飲み込めた瞬間、したたかにアスファルトに体を打ち付けた激痛が駆け巡ります。痛い痛い痛い痛い〜っと叫びながら、ああ、骨が折れたな、と思いました。


家に帰り着いて、確かめてみると、右膝の皮がベロリとめくれて血が滴っています。ぶっつけた箇所はズキズキするし、一日ツイてないことがあった上に、極めつけはこれか、と落胆しました。妻は、余計なことしなければ良かった、と悔いながら謝っています。私は自分のアホさ加減に脱力していました。


それから昨日、今日と激痛に耐えながらヨロヨロしています。これは今、職場に向かう電車の中で書いています。

恐らく、全治3週間から1か月というところでしょう。骨は折れていないと思いますが、結構な痛みです。

これを機に、またいろいろなことを

考えましたが、とにかく一番は、今に心を落ち着けておかなければならない、ということです。現在を離れて過去や未来に思考が飛び回っているせいで、迎えにきた妻が、通り魔に見えてしまうわけです。

今、今、今、と念じようと思います。

この忙しいときにこんな怪我をするとは! という怒りに対しては、ま、こんくらいのペースで無理せずやれや、というお告げやな、と思うことにしました。そして、運、不運ということを考えました。

これは、周りを見過ぎ、周りが見え過ぎ、ということの弊害なのかと思いました。この年まで病気らしい病気も怪我もしたことがない人がいるらしい、ということがネットで検索すると分かりますし、テレビでも幸運な人々の情報があふれています、まあ、その反対に見えることもあるわけですが、だからこそ、何かあるとすぐ、運不運とか言いたくなってしまうのです。

昨日父親と電話で話していて、怪我したよ、というと、「まあ、何が起きても有り難く受け取ることだ」と返されました。怪我の程度を聞くことも、大丈夫か? ということもなしにです。

じゃ、まあそういうことにしようか、と思ったのでした。


古山高麗雄の「しょせん人生 運不運」を図書館に予約しました。

人生、しょせん運不運

人生、しょせん運不運






疲れた日

今日もヘロヘロになりかけました。

人と比べることと、先のことを心配することが一番体をこわばらせ、疲れさせることを知っていますが、つい、体がそうやって反応してしまうときがあります。

恐るべし、自分の体。そんなに人と比べることが好きですか、そして、劣っていると思うことが怖いですか?

 

マキューアンの『贖罪』、なかなか面白くなってきません。

 

今日の良かったこと

 

①物事に誠実に取り組もうとしたこと

②ベストを尽くしたこと

③なにか、楽しみを見いだしたいと思ったこと

異種格闘技戦のような一日が終わる

今日も仕事でした。異種格闘技戦の様な一日。

あれやこれやで終わってしまいます。「思考を止めること」あるいは「思考を見ること」。「思考は自分ではない」という観察をしています。

 

帰ってくると、何だか喉がイガイガ。どうなることでしょうか? 一日働いていると、書くことがない日も来ますね。

 

今日の良かったこと

 

①終えられたこと

②人を励ましたこと(愛語)

③穏やかでいること